『第591話』 【毒物の取り扱い】求められる強い倫理観

イラク情勢や北朝鮮問題など、不穏な社会情勢は薬学と関係がないわけではない。

医薬品の根源をたどると、毒物であったものが少なくないからだ。また、微生物学でも感染症の根絶を目指して、病原性や細菌毒を詳しく調べてきた。しかし一度、毒物学や微生物学などを悪用すれば、これらの研究成果がすぐさまテロ活動につながってしまう。

大学の薬学部では、医薬品や化学物質の合成、微生物からの抗生物質抽出、毒物などの化学物質が体内でどのように吸収されて働き、生理的な機能にどう影響するかといった薬理学を詳しく学ぶ。

従って、薬学を学んだ者にとって、サリンなどの合成や植物性毒物の抽出はさほど難しいことではない。

さて、こうした社会情勢の中で生物化学兵器となりうる細菌、毒物、爆発物の原料になる物質の管理を徹底するよう注意を喚起する文書が国から何通も出されている。

厚生労働省は、炭痕(たんそ)菌、ボツリヌス菌、天然痘などの文書と一緒に「リシン」という毒物の取り扱いについて通知している。

かつて、ヒマシ油が下剤の代表格であったことを知っている人は少なくない。ヒマシ油は、明治19年に告示された第一版日本薬局方から収載されている伝統的な下剤だ。

ヒマシ油はヒマという植物の種、トウゴマを圧搾して作る。ヒマシ油特有のリシノール酸は、小腸と盲腸を収縮させて瀉下(しゃげ)作用を現す。

このトウゴマからリシンが得られる。その毒性は毒物上位五指に入るほど強力だ。ヒマは世界中のどこでも栽培されていて、テロ活動に使われる可能性が高い。

1978年にイギリスのロンドンで起こったブルガリアからの亡命者ジョージ・マーコブ暗殺事件はリシンを使った事件として有名だ。ごく少量で全身の細胞が壊死し、治療法はない。また、リシンはすぐに代謝されてしまうために死体から検出されない。

しかし、命の尊厳を常に意識している薬学者がこれらに手を染めることはまずない。知識があるがゆえに、悪用時の状況に恐怖を覚えるためだ。意識的に手を染めないのではなく、無意識のうちに手が止まる。「しない」のではなく「できない」のだ。

もろ刃の剣を扱うには、こうした倫理観が必要だ。