『第157話』 自然回復ゼロの毒ガス「サリン」

長野県で過去の亡霊がよみがえったかのような事件が起こった。毒ガス「サリン」による7人の犠牲者が出たことは、戦争の悪夢を現実の世界に引き戻した。

第二次大戦中、ドイツでは「サリン」のほか、「タブン」「ソマン」など構造が似た神経ガスが開発された。いずれも有機リン系殺虫剤と同様にリン酸基を持っており、青酸カリの400倍以上の毒性がある。人間の致死量は0.5ミリグラムだ。

国連の調査によれば、1983年イラン・イラク戦争の時、イラクが「タブン」を実戦で使用している。

こうした神経ガスは.神経信号の伝達に重要な役割を果たしている酵素・アセチルコリンエステラーゼ(AChE)の働きを阻害する。神経信号は、切ったりつなげたりすることで正常に伝わる。神経伝達物質のアセチルコリンを瞬間的に壊して、信号を切るのがAChEの役割だ。

AChEが神経ガスや有機リン系殺虫剤のリン酸基と結合すると、その作用を失ってアセチルコリンが蓄積する。すると副交感神経がつながったままになり、脱力感、目のかすみ、吐き気が起こる。ガス状の場合は、目から吸収されて縮瞳(しょくどう)が起こる。有機リン系殺虫剤の場合は、徐々にリン酸基を離して元の活性に戻る自然回復が起こるが、神経ガスの場合は自然回復はゼロだ。

このリン酸基を引きはがす解毒剤が「パム」だが、早期に使用しないと、リン酸基とAChEの結合が強くなるいわゆる「老化」と呼ばれる状態となって、効果を失う。有機リン系殺虫剤は数十時間で約半分が「老化」するが、「サリン」は5時間、「ソマン」に至っては2分で半分が「老化」してしまう。このほか、治療には硝酸アトロピンが使われる。

事件が起きた6月は農薬危害防止運動月間中だった。いまだに1971年に使用が禁止となった有機リン系殺虫剤パラチオンによる自殺者が絶えず、農薬の取扱不注意による事故も発生している。身の回りにある毒物の再点検と有効な法的規制が望まれる