『第187話』 後遺症が気掛かり、毒をもって毒制す
都心の地下鉄で起きた毒ガス“サリン”による無差別殺人は、平和に暮らす人々を奈落(ならく)の底に突き落とした。
この事件で被害者が経験したのは縮瞳(しゅくどう)であった。縮瞳とは黒目の瞳(ひとみ)の部分が針の先のように小さくなることで、周りが暗くなったり、物がよく見えなくなったりする。
瞳を大きくしたり、小さくしたりする筋肉は自律神経によって支配されている。自律神経には交感神経と副交感神経がある。交感神経は体が活動しているときによく働く。100メートル競走のスタートラインにつき胸が激しく鼓動しているときや、怒りの感情が爆発しそうになったとき瞳がカッと見開いたりするのは、交感神経が興奮することによる。
逆に、副交感神経は体が休息状態のときによく働く。副交感神経が作用するとき、神経の末端からアセチルコリンという物質が飛び出して、縮瞳のほか血管を拡張して血圧を下げる、脈拍をゆっくりにする、腸の運動を活発にするといった命令を伝える。命令を伝えると、速やかにアセチルコリンは分解される。
サリンはこのアセチルコリンの分解を阻止し、命令が継続した状態にする。
報道では解毒剤としてアトロピンとパムを紹介しているが、アトロピンはアセチルコリンの働きを阻止する薬だ。
アトロピンはベラドンナ、チョウセンアサガオといったナス科の植物に含まれる成分。ベラドンナのベラは美しい、ドンナは女性の意味がある。これらの液汁を点眼すると散瞳(瞳が大きくなる)し、女性が美しく見えることが経験上知られていた。
しかし、美しくなりたいと願う女性たちが過量に用いて幻覚、精神錯乱を起こし中毒死した例があるほど毒性も強く、中世には犯罪にもよく使われた。
アトロピンは、ギリシャ神話に登場する運命の糸を容赦なく断ち切って死に追いやる女神の名前「アトロポス」にちなんでつけられている。
毒をもって毒を制すとはいえ、被害者に後遺症が残らないことを祈るばかりだ