『第254話』 化学的に単純な無機金属も薬に

薬というと、複雑な構造式や亀の甲の形の有機化合物という印象があるかもしれない。

しかし、化学的に単純な無機金属も、さまざまな薬として使われている。カルシウムは骨粗鬆(こつそしょう)症、鉄は鉄欠乏性貧血の治療薬になる。最近、身近になってきたリチウム電池に含まれている金属・リチウムも、躁(そう)病の治療薬として使われる。

1948年、オーストラリアの精神科医カデが動物実験中、押さえ付けると興奮するモルモットに尿酸リチウムを注射すると鎮静化することに気づいた。これが発端となって、慢性躁病患者に試されることになった。睡眠薬を服用させて無理やり眠らせるしかなかった患者が、眠気などを伴わず躁状態だけが取り除かれるという劇的な回復を見せた。

しかし、この論文は3年間埋もれたままになっていた。当時、リチウムに関する研究が不十分で、塩化リチウムが減塩を必要とする人に代用され、死者まで出すリチウム中毒事件が発生していたからだ。

治療に要するリチウムの血中濃度は1ミリリットル当たり5.5~8.6マイクログラム。10マイクログラムで中毒症状が表れ、24マイクログラムに達すると生命が危険になる。現在、血液中のリチウム濃度を測定して投与量を決めているのはこのためだ。

日本では1970年にリチウム製剤の臨床試験が始まり、認可が下りたのはその10年後だ、薬価も安く、製薬会社には営利的に魅力のない薬になることは分かっていた。しかし、医療ニーズを重んじたメーカーの決断によって開発が進んだ。現在は世界保健機関(WHO)の必須(ひっす)医薬品にも指定され、国際的にも重要な医薬品になっている。

躁鬱(うつ)病の治療薬として炭酸リチウムが使われるが、健常人には全く作用を示さない。このリチウム製剤の薬理学的メカニズムはまだ解明されていない