『第386話』 命の価値、死の意味

奇(く)しくも病院のベッドの上で脳死臓器移植の報道を聞くこととなった。以前から気になっていた黒いほくろがあり、皮膚科を受診した。医師は初診時にすでに基底細胞腫(しゅ)=がん=であることを予想していたようだ。しかし、患者に心配をかけないように、確定的な診断が下せるデータが集まるまで黙っていた。

だれもが自分自身ががん宣告を受けるなどとは思ってもいない。常に突然そのような事態になるのではないだろうか。世間では心の準備をしておきなさいなどといっているが、どれほど準備していたことが役立つものかは分からない。

実際、がんという言葉は私の脳裏で他人事のように響いていた。それは「生まれて、死ぬ」という自然の摂理を体感するような感覚であった。幸運にもこの基底細胞腫はがんといっても転移するのは稀(まれ)で、手術で取り除けば心配ない。とはいえ、基底細胞腫の除去および皮膚移植手術が必要で、2~3週間の入院・治療が必要になった。

家族または自分自身が脳死に陥ることもまた突然とやってくるだろう。脳死臓器移植を実施するためには、ドナーカード(臓器提供意志表示カード)に自署と家族の署名がいる。私も家族で十分話し合い、署名したドナーカードを常に携帯している。脳死はあくまでも法律上の死である。死の時点をどの位置に定めるのか、その考え方はそれぞれ個人ごとに違う。

この最終意志決定は何人も侵してはならない。死によって成り立つ臓器移植を否定する人もいる。しかし、人は命を戴(いただ)いて命を永らえている事実もまた見逃してはならない。故に、毎回(命)いただきますと感謝し、食事を始めている。命の存在を実感するとき、目前に死がある。命に形がない。その命という無形の価値を実感し、「何のための医療か?」という問いに個人個人が答えを出さなければならない。