『第486話』 医療だけでは救えない
医薬品情報センターには、毎日数件の問い合わせがあるが、その中で衝撃的だった電話がある。
「死ねる薬はありませんか」。電話の向こうで、か細くささやく声があった。薬は病気を治し健康を取り戻すためのものという常識が崩された。話の中身は、首都圏から恋人を追いかけてきたが夢を果たせず、行き着く先のない結果に終止符を打つための問い合わせだった。
「話をしませんか?」。電話の向こうに呼びかけてみた。人を医療だけで救うことはできない。京都の東本願寺で人生相談をしていた友人と道を探ってみることにした。結果、十分に納得したわけではないと思うが、相談者はその日のうちに父親の待つ羽田へと飛び立った。その人を救うことができるのは、その人自身であることを知らされた出来事だった。
また、末期がんの人から「転移したがんを治療する方法があるのか」と問われたこともある。こちらから言える回答はない。話を聞き、うなずき、また聞くだけだ。こうした場合にあっては、医療は単なる道具であったことに気付かされる。
さて、「死の文化を豊かに―医療が沈黙するとき」と題した公開講座(主催・県薬剤師会)が、18日午後3時30分から秋田市の県総合保健センターで開かれる。講師は鳥取赤十字病院で内科医を務める徳永進氏。徳永氏は82年に「死の中の笑み」で第4回講談社ノンフィクション賞、92年には地域医療の分野で活躍する人に贈られる第1回若月賞を受賞した。そのほか、ハンセン病の人々の模様をつづった「隔離」や「死のリハーサル」「カルテの向こうに」など多くの著書がある。
かつては死から逃げるための医療が中心だったが、今は死について正面から取り組み、対じしている。その結果、終末期医療やスパゲティ症候群、ホスピス、尊厳死など。死とどう向き合っていくか、向き合うなかでさまざまな言葉が生まれてきている。
ところで、米国の移植コーディネーターは、臓器移植後に提供した家族をケアする仕事の機会が増えているという。患者の家族にも時薬(ときぐすり=時間が薬になる)が必要だ。終末期医療や高齢者介護は他人事ではなく、自分自身の事柄。その処方を、先に紹介した講演で聞いていただければありがたい。