『第658話』 【ドーピング】遺伝子レベルの時代に

恨み、ねたみ、そして差別と煩悩渦巻くこの世とは一線を画したスポーツの公平な実力評価の世界に、人は共感を覚えるのだろう。その意味でドーピング問題は、アテネオリンピックにおいて最も話題にしたくないテーマだった。陸上男子ハンマー投げで室伏広治選手が繰り上げ金メダルとなっても、もろ手を挙げて喜ぶ気にはなれない。選手たちも同様だろう。

薬物は検出されていないが、IOC(国際オリンピック委員会)はアドリアン・アヌシュ選手(ハンガリー)の尿検体が、別人のものだったという決定的な証拠を示して、ドーピング違反と認定した。

競技の公平性もさることながら、過去、多くの選手がドーピングが原因とみられる突発性心不全などで亡くなっている。選手の健康を守るためにも薬物を使用するべきではない。

年々、禁止薬物を検出する分析法の開発や分析機器の性能向上によって、タンパク同化ステロイドなど検出が難しかった薬物が検出できるようになってきている。こうしたことからアテネ大会では、ドーピング違反件数は24件と過去最多となった。

今、問題となりつつあるドーピングがある。遺伝子ドーピングだ。世界アンチドーピング機構は最新規定書に初めて「遺伝子ドーピング」を明記した。既に、PPARデルタという脂肪を燃焼させるタンパク質の発現能力を高めた遺伝子を組み込み、持続力を2倍に高めたマラソンマウスが誕生。この能力は子孫に遺伝継承されていく。

さらに問題を難しくしているのは、遺伝子操作をしなくても特異的な体質として家族性多血症という酸素を全身に供給する赤血球の数が多い人がいて、既にこの家系から金メダリストが誕生していることだ。このほか、ミオスタチンが変異を起こすと筋肉が増えることも知られている。

現状では、遺伝子ドーピングを確認する手法は確立されていない。室伏選手は、銀メダルの裏に刻み込まれた古代ギリシャの詩人ピンダロスの詩を訳した紙を報道陣に配った。今回の問題への思いを託したといわれるその紙には「真実の母オリンピアよ あなたの子供達が 競技で勝利を勝ちえた時 永遠の栄誉(黄金)をあたえよ それを証明できるのは 真実の母オリンピア」と書かれていた。

今や筋肉改造人間を造ることが可能な時代となった。重要なのはアンチドーピング教育をしっかりと行い、多くの感動を与えてくれたアテネオリンピック出場選手たちのように、金メダルを取ることよりも重要なことがあることを学べる心をはぐくむことだ。