『第619話』 【薬の情報提供義務】患者への心配り大事

仏教用語で、「人間」と書いて「じんかん」と読ませる。この言葉は、人は一人だけでは存在しえないことを言い当てている。そして、自己の実存性の証明は、自分がいて、他者がいるのではなく、他者がいて、初めて自己の存在が明らかになることを示している。

言わんとするところは、患者がいての薬剤師という関係があるということだ。決して薬剤師の存在が先にあるわけではない。このように、親を認めない子供、教師として認めない生徒の関係など、相互の関係認識の相違を原因とする社会問題が多く存在し、トラブルが発生している。

従って、自分が薬剤師と思っていても、患者さんを視野に入れて対応している薬の専門家であることを患者さんが認めて、初めて患者と薬剤師の関係が成り立つ。10月1日付夕刊で田沢湖町の投稿者による「読者の声」を読んでの感想だ。

投稿内容を要約すると、周りに人がいるのに病名を言われ、副作用が今服用している薬で起こっていることや遠くから病院に通っている理由などを聞かれ、「信頼できる病院だから通う」と答えるのが精いっぱいで、ショックを受けた。翌月は別の薬局で調剤を受けた。10ヶ月ほど服用していることを話すと「お大事に」と薬歴と私を交互に見ながら渡してくれたので、安心できた。薬の説明など、きめ細やかな指導の必要性は理解しているつもりだが、これには心配りも含まれるはずだというものだ。

専門家は、こうした深みにはまることが多い。しかし、筆者から見ると前者の薬剤師が悪く、後者が良いとも言えない。心配りはなかったものの一生懸命服薬指導をしようとする姿勢も感じるからだ。

1997年に薬剤師法22条の2で、薬剤師に医薬品情報を提供する義務が課せられたが、ほかの人に聞こえないような薬局構造設備となっていない現状がある。

真の信頼関係を構築する事は難しい。心配りとは、相手の立場に立つということだ。筆者自身の反省も込めて、苦情は全県の薬局にファクシミリで知らせ、「何が悪いのか」を個々の薬剤師の検討課題としている。