『第711話』 【ピロリ菌】当時の常識を覆う発見

科学者の醍醐味(だいごみ)は常識に疑問を持ち真実を解き明かして、それが新たな常識として確立していくところにあるのではないか。今年のノーベル医学生理学賞は、それを比較的短期間に見届けることができた珍しい事例となった。

オーストラリア王立バース病院の病理医をしていたロビン・ウォーレンが、胃の出口に当たる幽門部の炎症部位に潜んでいるヘリコバクター・ピロリ菌(ピロリ菌)を見つけたのは1979年のことだ。1800年代から動物の胃の中から、らせん状の菌が見つかることはあったが、当時はpH1.2の強力な消化酵素の下で、微生物は生存できないと考えられていた。

苦労はここから始まった。ピロリ菌は今でこそ染色方法.が工夫されているが、通常の方法では胃粘膜内に入り込んだごみと区別がつかない。その上、4~8本あるべん毛を使い、かなり速く動き回る。

細菌学の専門書にはコッホ(ドイツの細菌学者)の四原則が出てくる。▽伝染病には必ず特定の微生物が存在する▽その微生物を分離して取り出せる▽分離した微生物で実験的に感染させることができる▽感染動物から再び同一微生物を分離できる-というもので、細菌学ではこれが感染症と病原微生物との因果関係を証明する条件になる。

ウォーレンは同じ病院に来たバリー・マーシャルとともに100例の胃炎、胃・十二指腸かいようの組織を調べ、ピロリ菌を発見した。しかし、培養して感染させるほどの菌を得ることはできなかった。

通常の細菌培養では48時間後に増殖を確認するのだが、1982年、2人はイースターの休日があって5日間培養してしまった。その中にピロリ菌が増殖している培養器があった。増殖するまで時間がかかるということだったのだ。そして実験動物に感染を試みるが、また失敗の連続だった。84年、マーシャルは培養液を自ら飲み干した。4日間は無症状だったがその後、嘔吐(おうと)と不快感に襲われた。このようにしてコッホの四原則が満たされた。

日本人は低胃酸症の人が多いためかピロリ菌の感染率が高く、特に60歳以上になると約60%が感染している。現在では胃かいようや十二指腸かいようの原因であることが常識になった。検査方法と除菌療法も確立された。

さらに注目されているのが胃がんとの関連だ。スナネズミに感染させた実験では、胃がんを発症することが証明されている。この関連を証明するにはもう少し時間がかかるが、胃がんの罹患(りかん)率と死亡率が高い日本人にとっても意味のある両者のノーベル賞受賞を祝福したい。